介護タクシー、民間救急は株式会社ふたばらいふへ【横浜/厚木】救急救命士とヘルパーが同乗するので車いすの方も安心です。24時間365日、全国どこでも伺います!
考え方
社是

経営理念

企業コンセプト
| エンジョイメント | 我々は輸送業ではない。楽しさの創造を提供する企業である |
|---|---|
| セーフティー | 有資格者による安全。これは必要最低限であり必須項目と考える |
| ジョイン | 支えあって生きてゆく、ヒトの本質を貫きたい |
| メモリー | 換え難い思い出をご一緒に |
創業に向けて
私、廼島孝章は4年前に母を亡くしました。まだ56歳でした。
母は気丈な人で、もともと体は強いほうではなく、交通事故による後遺症や、すい臓炎などを持病とし、いつもどこに不調を抱えておりました。それでも母は学校の栄養士として他人にはその辛さを表すことなく、いつも笑顔で仕事をしていました。
その母から突然、「お母さん、がんになったみたい」と電話がありました。当時、私は東京の大学病院で看護師をしており、母は実家である新潟に祖母と二人で暮らしていました。
新潟ではがんなど抗がん治療、放射線治療など少し高度な治療をする場合、新潟市の新潟大学病院、県立がんセンター、長岡の日本赤十字病院など限られた施設しかありません。新潟県は細長く、北から南までの距離は約200kmもあるのにも関わらずです。
母もがん治療のため、約100km先の新潟大学へ入院し、手術。術後の抗がん剤治療を行い、がんもほぼ消滅したため、実家に戻り実家の近くの病院で定期的にフォローできるまでになり、私もホッとしました。
その間、母の傍に付き添えたのは手術の時だけ。それ以外は距離の問題もあり行けず、電話での連絡のみでした。
母とは電話やメール(病気になり50歳過ぎてやっと使えるようになりました)でやり取りしていましたが、多少不安げな言動はあったものの、私に心配をかけまいと明るく振る舞っていました。自分に言い聞かせよう、との意図もあったのだと思います。
そんな中、治療が終わって半年、腫瘍マーカーの上昇がみられ、がんの再発が認められました。がんが再発した場合、そのがんが限局に存在する場合は再度手術で取り除けますが、他の部位への転移も多く、手術での根治治療はできず、抗がん剤もしくは放射線治療に頼らざるを得ません。さらに再発の場合、前回使用した抗がん剤が効けばいいのですが、それが効かない場合は前回以上に強い、薬を用いなければならず、その副作用は想像を絶するものがあります。
母のがんは前回使用した抗がん剤では効果を示さず、腹膜への転移も見られ、さらに強い薬でしか治療できませんでした。治療が始まり、吐き気、倦怠感、脱毛など副作用に苦しんでいましたが、それでも私が見舞いに行くと笑顔で迎い入れてくれました。そんな苦しい治療にもかかわらず、母を苦しめるものは母の体を侵食し、治療自体が母の命を縮めることにしか働かなくなっていました。
忘れもしません。年が明けて1月9日、実家にいた弟より、母が家で倒れて動けないと電話があり、私は急いで新幹線に乗り東京から新潟へ向かいました。そこで会った母は、黒々していた髪は抜け落ち、残っている髪はすべて白髪になり、ほほもこけ私の知っている母ではなくなっていました。それを見て私はもう新潟で看ていてはいけない、もう治療はいいから、私のところへ引き取ろうと思いました。
しかし、現実には私のいるところに引き取っても在宅で看てくれる医師がいなければ在宅で看ていくことは困難。その時、私の妻は訪問看護をしており、妻に頼んで在宅で看てくれる医師を探してもらいました。他にも問題がありました。母はもうトイレくらい歩くのが限度でほぼベッド上での暮らしになるのは必須。そうなれば医療用のベッド(ギャッチアップ+床ずれ予防用の柔らかいマット)、ポータブルトイレなども用意しなければなりません。
当時の介護保険は65歳以上の要介護を受けた方のみしか使えませんでした。40歳以上で介護保険料を払っているにもかかわらず、がんの末期では介護保険を使用することはできませんでした。介護保険が使えれば医療用のベッドや介護補助具などが1割負担でレンタルでき、すぐに導入できたはずです。現在では40歳以上であれば末期がんでも介護保険使用可能となっています。私の場合は、妻に頼んで介護用具を扱っている業者に連絡し、全額自費で設置しました。
東京での受け入れ態勢はできました。しかし、真冬の新潟から東京まで、貧血、吐き気、嘔吐などの症状があり、体力もほとんどない母をどうやって運ぶか、これが問題でした。その当時もう自分ですべてやるしかないと思い込んでいたため、車のタイヤををスタッドレスに換え、後部座席をフルフラットにして布団を敷き、そこに母を寝かせていくしかない。実家には母以外に80歳になる祖母と犬もいたので、母以外のスペースも確保し、車で新潟へ向かいました。
新潟に着くと母はさらに弱々しくなっていました。そんな中でも母は家の権利書、自分の資産や生命保険などをまとめて私に渡しました。その時私は「そんなのどうだっていいから、自分のことだけ考えてよ!」と、逆に怒りをぶつけてしまいました。今考えてみれば、病状の告知はされているとは言え、予後までは告知されていない中で、自分のことより、残された家族のことを思ってこんな用意のできる人はいるのだろうか?母はもう自分が長くないのを知った上で、住み慣れた新潟から息子のいるところへすべてを託そうと思っていたのだと思います。当時、母には余命宣告はできませんでした。しかし、それは数か月との告知を私は受けていました。
いざ新潟を出て高速道路に入って湯沢に差し掛かるとそれまで全然雪降っていなかったのに猛吹雪、数メートル先も見えない。さらに気温も零度以下になり、路面も凍結。普通に運転するだけでも大変なのに、重病の母に負担をかけないよう運転することは至極大変でした。通常5時間程度で到着できるところを、倍以上の約12時間。何とかたどり着くことができました。着いて3日後、母はもう一人でトイレに行くことさえできなくなっていました。あと3日遅ければ連れて来られなかったと思い、準備をしてくれた妻、この絶妙なタイミングを与えてくれた神様に感謝しました。
しかしながら、母はその約3ヶ月後、祖母、弟、私、妻、愛犬たちの見守る中、涅槃へと逝きました。
私は看護師です。妻も看護師かつ訪問看護師であったため、母を自宅で見守ることができるように環境を整え、看護をすることができました。しかしながら、少子化、核家族化が進む中、遠方にいる親などをどうやって看ていくのか。私の場合、約300km、吹雪の中を連れて行く事は大変困難でした。
こんな時に安心して、母だけを見て運んでくれるサービスがあれば、と強く感じたのです。
いえ、今でもそう思います。当時、そんなサービスがあったのか否か、分かりません。民間搬送などの会社もあったと思うのですが、私は全く認知していませんでした。
そしてこのような場合、介護保険、在宅診療、訪問看護、介護などのサービスを速やかにコーディネートしてくれる方がいなければ難しいと思います。現在このようなコーディネーターとして、公的な窓口やケアマネージャーなどがいますが、全く突然に、身内に不具合が生じた場合には、パニック状態でもあり、スムーズにいかないことが多いと思います。実際には「何から手を付けたら?」がホンネではないでしょうか?
弊社は介護保険事業所ではありません。しかしながら、幸い私どものスタッフには救命士、
FP(ファイナンシャルプランナー:保険や資産運用などアドバイザー)、保育士、介護士、看護師とさまざまな職種、経験を持ったスタッフがいますので、搬送以外の分野でも専門的なアドバイスも行えるものと自負しております。
気兼ねなく色々なお話をしていただけるそんな会社にしていきたいと思っております。
我が社のスタッフをこき使ってください。それがスタッフの励みになり、強いてはお客様のより良いサービスに繋がるものと考えています。
母は気丈な人で、もともと体は強いほうではなく、交通事故による後遺症や、すい臓炎などを持病とし、いつもどこに不調を抱えておりました。それでも母は学校の栄養士として他人にはその辛さを表すことなく、いつも笑顔で仕事をしていました。
その母から突然、「お母さん、がんになったみたい」と電話がありました。当時、私は東京の大学病院で看護師をしており、母は実家である新潟に祖母と二人で暮らしていました。
新潟ではがんなど抗がん治療、放射線治療など少し高度な治療をする場合、新潟市の新潟大学病院、県立がんセンター、長岡の日本赤十字病院など限られた施設しかありません。新潟県は細長く、北から南までの距離は約200kmもあるのにも関わらずです。
母もがん治療のため、約100km先の新潟大学へ入院し、手術。術後の抗がん剤治療を行い、がんもほぼ消滅したため、実家に戻り実家の近くの病院で定期的にフォローできるまでになり、私もホッとしました。
その間、母の傍に付き添えたのは手術の時だけ。それ以外は距離の問題もあり行けず、電話での連絡のみでした。
母とは電話やメール(病気になり50歳過ぎてやっと使えるようになりました)でやり取りしていましたが、多少不安げな言動はあったものの、私に心配をかけまいと明るく振る舞っていました。自分に言い聞かせよう、との意図もあったのだと思います。
そんな中、治療が終わって半年、腫瘍マーカーの上昇がみられ、がんの再発が認められました。がんが再発した場合、そのがんが限局に存在する場合は再度手術で取り除けますが、他の部位への転移も多く、手術での根治治療はできず、抗がん剤もしくは放射線治療に頼らざるを得ません。さらに再発の場合、前回使用した抗がん剤が効けばいいのですが、それが効かない場合は前回以上に強い、薬を用いなければならず、その副作用は想像を絶するものがあります。
母のがんは前回使用した抗がん剤では効果を示さず、腹膜への転移も見られ、さらに強い薬でしか治療できませんでした。治療が始まり、吐き気、倦怠感、脱毛など副作用に苦しんでいましたが、それでも私が見舞いに行くと笑顔で迎い入れてくれました。そんな苦しい治療にもかかわらず、母を苦しめるものは母の体を侵食し、治療自体が母の命を縮めることにしか働かなくなっていました。
忘れもしません。年が明けて1月9日、実家にいた弟より、母が家で倒れて動けないと電話があり、私は急いで新幹線に乗り東京から新潟へ向かいました。そこで会った母は、黒々していた髪は抜け落ち、残っている髪はすべて白髪になり、ほほもこけ私の知っている母ではなくなっていました。それを見て私はもう新潟で看ていてはいけない、もう治療はいいから、私のところへ引き取ろうと思いました。
しかし、現実には私のいるところに引き取っても在宅で看てくれる医師がいなければ在宅で看ていくことは困難。その時、私の妻は訪問看護をしており、妻に頼んで在宅で看てくれる医師を探してもらいました。他にも問題がありました。母はもうトイレくらい歩くのが限度でほぼベッド上での暮らしになるのは必須。そうなれば医療用のベッド(ギャッチアップ+床ずれ予防用の柔らかいマット)、ポータブルトイレなども用意しなければなりません。
当時の介護保険は65歳以上の要介護を受けた方のみしか使えませんでした。40歳以上で介護保険料を払っているにもかかわらず、がんの末期では介護保険を使用することはできませんでした。介護保険が使えれば医療用のベッドや介護補助具などが1割負担でレンタルでき、すぐに導入できたはずです。現在では40歳以上であれば末期がんでも介護保険使用可能となっています。私の場合は、妻に頼んで介護用具を扱っている業者に連絡し、全額自費で設置しました。
東京での受け入れ態勢はできました。しかし、真冬の新潟から東京まで、貧血、吐き気、嘔吐などの症状があり、体力もほとんどない母をどうやって運ぶか、これが問題でした。その当時もう自分ですべてやるしかないと思い込んでいたため、車のタイヤををスタッドレスに換え、後部座席をフルフラットにして布団を敷き、そこに母を寝かせていくしかない。実家には母以外に80歳になる祖母と犬もいたので、母以外のスペースも確保し、車で新潟へ向かいました。
新潟に着くと母はさらに弱々しくなっていました。そんな中でも母は家の権利書、自分の資産や生命保険などをまとめて私に渡しました。その時私は「そんなのどうだっていいから、自分のことだけ考えてよ!」と、逆に怒りをぶつけてしまいました。今考えてみれば、病状の告知はされているとは言え、予後までは告知されていない中で、自分のことより、残された家族のことを思ってこんな用意のできる人はいるのだろうか?母はもう自分が長くないのを知った上で、住み慣れた新潟から息子のいるところへすべてを託そうと思っていたのだと思います。当時、母には余命宣告はできませんでした。しかし、それは数か月との告知を私は受けていました。
いざ新潟を出て高速道路に入って湯沢に差し掛かるとそれまで全然雪降っていなかったのに猛吹雪、数メートル先も見えない。さらに気温も零度以下になり、路面も凍結。普通に運転するだけでも大変なのに、重病の母に負担をかけないよう運転することは至極大変でした。通常5時間程度で到着できるところを、倍以上の約12時間。何とかたどり着くことができました。着いて3日後、母はもう一人でトイレに行くことさえできなくなっていました。あと3日遅ければ連れて来られなかったと思い、準備をしてくれた妻、この絶妙なタイミングを与えてくれた神様に感謝しました。
しかしながら、母はその約3ヶ月後、祖母、弟、私、妻、愛犬たちの見守る中、涅槃へと逝きました。
私は看護師です。妻も看護師かつ訪問看護師であったため、母を自宅で見守ることができるように環境を整え、看護をすることができました。しかしながら、少子化、核家族化が進む中、遠方にいる親などをどうやって看ていくのか。私の場合、約300km、吹雪の中を連れて行く事は大変困難でした。
こんな時に安心して、母だけを見て運んでくれるサービスがあれば、と強く感じたのです。
いえ、今でもそう思います。当時、そんなサービスがあったのか否か、分かりません。民間搬送などの会社もあったと思うのですが、私は全く認知していませんでした。
そしてこのような場合、介護保険、在宅診療、訪問看護、介護などのサービスを速やかにコーディネートしてくれる方がいなければ難しいと思います。現在このようなコーディネーターとして、公的な窓口やケアマネージャーなどがいますが、全く突然に、身内に不具合が生じた場合には、パニック状態でもあり、スムーズにいかないことが多いと思います。実際には「何から手を付けたら?」がホンネではないでしょうか?
弊社は介護保険事業所ではありません。しかしながら、幸い私どものスタッフには救命士、
FP(ファイナンシャルプランナー:保険や資産運用などアドバイザー)、保育士、介護士、看護師とさまざまな職種、経験を持ったスタッフがいますので、搬送以外の分野でも専門的なアドバイスも行えるものと自負しております。
気兼ねなく色々なお話をしていただけるそんな会社にしていきたいと思っております。
我が社のスタッフをこき使ってください。それがスタッフの励みになり、強いてはお客様のより良いサービスに繋がるものと考えています。
代表取締役 廼島孝章
